最近、プライベートである方と話をしている最中に、その人の「コア・ビリーフ」に気がついてしまったという出来事があった。
「コア=核 ・ ビリーフ=信念」
「信念」という言葉は、日本では教育などで使われる良きイメージがあり、「しっかりとした信念を持つことは良いことだ」「信念を持ちなさい」などという風に使われるが、
それがもし不調和を齎すものであった場合は、当たり前だけれども手放すことが必要となる。
人間が成長過程で作り出した数々の「ビリーフ・信念」には、そういったネガティブなものも多くあるし、「コア・核」というだけに、普段の顕在意識に上がってくることがあまりないので、本人には気がつき難いものでもある。
そしてこれらは、集合意識や家系由来のもの、ソウルグループに共通するものも存在する。
例えば、心の奥底に 「私には価値がない」という信念を持っていたら。
そのようなコアビリーフを持っていれば、自分には価値がないと思わせてくる出来事や人々を引き寄せてくることになる。(同じような出来事でも、その人の進化の段階によっては全く別の意味合いがある場合も。なので一概には言えないのだが)
また、実際にはそうではない出来事や人々に出会った場合でも、「この人は私に価値がないと言っている(思っている)に違いない」と脳内で情報を変換してしまう癖が発動してしまうことも。
多くの人々はそんな眠ったような状態で日々を過ごしており、実際の現実ではなく己の脳内で生きているとも言える。
上に書いた方の場合は、「私は厄介者だ」であった。
自分の核にその信念がある限り、その人はどこへ行っても、ふとした時に自分を厄介者だと感じることをやめられない。たとえ周りは誰一人そんな風に思っていなくても。
するとその人は、自分が本物の厄介者になれるようわざわざ行動を起こし現実を作り出してしまう。無論そんなつもりは本人は毛頭ない。全て無意識レベル、自動運転で行っているのだから。この人だけでなく、そのように多くの人は、反射的にほとんどオートマチックに生きているものなのだ。
それで本当に厄介者扱いされて、その人はどこか内心ホッとする、「ほら、やっぱりね」と。
こうして信念は強化されてゆく。
でも、そんな風に自分を責め続けるのはとても辛いもの。そして辛いことは続かないのも人間の性。
すると今度は、他の誰かを厄介者扱いし始めてしまうという悲しい投影が始まる。
「自分には価値がない、自分は厄介者だ」こんな一見たいして害のないようにみえる信念も、苦しみのあまり、それを誰かに投影してしまえば、それはエネルギー攻撃になってしまう。
その人が本当は愛を求めていた大切な誰かも、そこから一転して憎い敵に。。。という悲し過ぎる現実を作り出してしまうこともあるのだ。(そしてそこにはいつだって、外部の良からぬエネルギーが関与していることを忘れてはならない)
そんな現象が、家庭で、職場で、学校で、あらゆる人間関係の場で起こっているのが、この人間界という場所。
しかし、なぜそのような結果を齎す信念を持ち続けることを人々は辞めないのだろうか?
それは、そこにエゴセルフにとって手放すことの出来ないメリットがあるから。
本当にその信念を手放したいのなら、そのメリットに気がつき、先ずはそこを癒す必要がある。
例えば、厄介者として存在していれば回避していられることがあり、いつまでも見なくていいものがあるのではないだろうか?
コア・ビリーフを持つことで得られるものは何か。
何かを恐れてはいないだろうか? それは本当にあなたが思うほどに怖いことなのだろうか?
でもそれは本人にしか見つけることはできない。
争いを止め、調和的な関係性、破壊ではなく発展や現実創造を目指すなら、まず自分の否定的なコア・ビリーフに気がつくこと。
だが、この核心に迫るとき、多くの人はこの道から逃げ出すし、その強い恐れは何度も繰り返しやってくる。
だからこそ、手放す決意をすること、さらにその継続的努力をやめないこと。
それが「恐れ」の対極にある「愛」の行い。
真の自由への道であり、長期的な継続する意志の中にしか存在できないもの。
恐れではなく愛を選択し続けること。それはきっと簡単なことではない。
だから初めは少しづつでいい、成長は一足跳びにはいかないものだから。
もし失敗しても、逃げてしまっても、また立ち止まることが出来たなら、戻ってきてまた一人努力を始めればいい。
良き行いを続ける者には、神は多大なる恩恵を与えてくれる。(その一つが、レイキというエネルギー)
そのあなたの努力の一歩一歩が、天上へ近づく道筋になる。
そして、人として生まれた私たちの誰もが皆、その螺旋状に続く道のどこか途中にいるのだよね。
by Yew
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